私はまだ、「平成」を知らない。

 「社会科」といえば、小学校の義務教育から大学受験に至るまで、最も苦手な教科だった。

 授業で先生の言っていることが、黒板に書かれる文字や図が、教科書に並んでいる言葉や写真が、いっこうに頭に入ってこないのだ。目で見て耳で聞いて情報は脳みそに伝わってくるけれど、それらはいっさい心身に浸透することなく、時間とともにさらさら流れてゆくばかり。

 教室の一員として先生の話に耳を傾けて、黒板の文字を手元のノートに書き写すポーズはとってみるものの、日本史、世界史、地理、公民… そのいずれも、どこか遠い世界の、知らない言語や文明と遭遇して「とりあえず触れてみる」感覚の枠を出るものではなかった。情報から何かしらを汲み取って自分で考える材料にしたり、まして何かしらの答えを導き出すなど、私には到底及ぶことのできない領域だった。

 授業で扱われる様々な内容は、自分にとって何もかもが他人事でしかなかった。

 ”そんなこと”より当時の私は、身の回りで起こっている色鮮やかな事象に強く惹きつけられたものだ。昨日あった友人とのやりとり、練習中の音楽や絵、夢中になって読んでいる小説、などなど。気づけば社会科の授業のほとんどは、真面目に授業を受けるふりをしながら空想や妄想に耽る時間となっていた。

 

 「ちゃんと勉強しなかった」ツケが回ってきたのは、今の夫と結婚生活が始まってからのこと。

 ……いや、実際のところ、もっともっともっと早い段階からツケは存在していたのだけれど、当時は全く気づかなかった。気づけるだけのきっかけと聡明さが自分には足りていなかった。あらゆる場面で損をして、だけど全く気づきもしないまま、ようやく「やばいんじゃないか」と気づくに至ったきっかけが結婚だった。

 夫はマニアと呼んでも差し支えないほどの歴史好きなのだが、その夫を育てた義両親もまた、歴史をはじめとした社会科に造詣が深い人達であった。結婚後、幾度となく参席した義実家団欒の時間には、いつだって政治、地理、そして歴史の要素がそこかしこに散りばめられていたのである。

 彼らの織りなす会話はあらゆる知識が基盤となっていて、「その場しのぎの試験対策に」丸暗記した私の記憶などてんで役に立つものではなかった。金閣寺を建てたのが【    】だなんてことはどうでもよくて、というかわざわざ言うまでもなくて、その【    】が政治的にどんな立ち位置にいてどんな思想を持っていたのかとか、【    】が金閣寺を建てることによって日本文化にどのような変化が起こったのかとか、金閣寺の宗派は何で、誰が有名で、その教えはどのようなものか、とか……

 そういった「濃すぎる」内容がふとした瞬間に持ち出されるものだから、私はいつも気が気でなかった。テレビで流れる最新のニュースにまつわる話題だけでない。それすら私は危うかったけれど。骨董品鑑定番組に持ち込まれた美術品、知人の海外旅行先、あるいは近所の土地と特産物……本当に些細な日常会話に、知識の有無が問われる機会がある。「問われる」よりももはや「知っているのが当たり前という前提」で展開される、というほうが適切かもしれない。

 私はただにこにこと微笑んで頷くか、曖昧な相槌を打つことしかできなかった。そんな私に向けられる目はどことなく冷ややかな優しさを帯びている、気がした。きっと何もかも見抜かれていたのだろう。思い出すたびに背筋が凍える場面が重なるにつれて、今度こそちゃんと勉強しなければ、と焦りは募っていくばかりだった。

 だけど、今更、一体どうやって?

 

 そんな折、電子書籍版・小学館の学習まんが『日本の歴史』が、8月31日までの期間限定で全巻無料公開されていることを知った。(※現在は終了)

 学習まんがといえば小学校の図書館に並んでいて児童に人気だった… 気もするが、残念ながら当時から私はさして興味を抱いていなかった。まんがは完全に娯楽としてあるべきもので、どうしてそこにまでお勉強の要素が入り込んでくるのかと、身勝手な理由で憤ってすらいた。周りの子を見習っていざ開いてみても、教科書と同じ単語が目に入ってくることに拒否感があって、結局まともに読んだ記憶はない。

 あのときは歴史まんがも教科書も挫折してしまったけれど。 もしかして、大人になった私が読んでみたら、案外面白く感じられるかもしれない。これから文字だらけの書籍を読み直すより、絵と文字の両方から情報を受け取れるまんがの方が気楽で、自分には向いているのではないだろうか。内容も小学生向きだし、ほぼほぼ初心者の私にはちょうどいいのかも。

 大いなる期待を胸に、まずは最初からと、第1巻『日本の誕生』に手を伸ばした。

 読める、読めるぞ…!まるでラピュタの古文を解読するムスカ大佐のように、小さな喜びを噛みしめながら読み進める。

 ん?ちょっと待って、さっきから既視感が……

 

 そういえば私は「竜頭蛇尾」タイプで、何事でも最初だけは張り切って頑張る子供だった。日本史は縄文時代に近いほど詳しくて、ノートは最初の1ページ目が一番丁寧。(それは今なお続いていて、いずれブログにも現れるはず…?) 

 つまり、このあたりまでは既にそれなりに勉強した範囲内なのだ。これではせっかく読んでもあまり進歩がないではないか。

 少し考えたのち、今度は「これまでとは逆のパターン」、すなわち「最も新しい歴史」から読み進めていくことにした。

 まずは『平成の30年』。平成といえば、私が生まれて育った時代のほとんどだ。まだ生まれてもいない過去の事象とは異なり、生身の肉体でその時代を生きてきた自負がある。きっと書かれている内容も知ってることがほとんどで、取り掛かりにはちょうどいいだろう。

 特に期待もなく、開いたページ。そこに書かれていたのは…… 私がこれまで知らなかった、知ろうともしなかった「平成」の様相だった。

 

平成元年に3%でスタートした消費税。
バブル景気とその崩壊。
阪神・淡路大震災東日本大震災などの自然災害。
55年体制の崩壊により、二転三転する政権。
なかなか抜け出せないデフレスパイラル

 

一方世界では、中国の天安門事件ベルリンの壁崩壊、東欧革命等の民主化の波が起こります。
長く続いた冷戦は終了したものの、
各地で紛争は続き、日本もその影響で
自衛隊を海外派遣するに至ります。

 

地球温暖化やエネルギー問題等もふくめて
新しい課題がわき起こった平成時代を徹底解剖。 

www.shogakukan.co.jp

 

 紹介文に出てくる単語は一通り「聞いたことがある」。その程度の知識しか自分にはないことを思い知らされた。これまで「知っている」と尊大なる勘違いをしてきた物事は、実は「知らない」に等しかったのだ。

 消費税が昭和以前には存在しなかったこと。バブル景気の起こりと崩壊の理由。それによる影響、政策、社会の変化。顔と名前は知っている歴代の首相が、どのような政策を進めて、国民の生活はどう動かされてきたか。

 耳馴染みのある国、旅行で訪れてすらいた国に大きな変化が起こっていたこと。諸外国と日本の関係性。自衛隊の成り立ちと実態。

 時代の担い手である私たちが知っておくべきで、考えなければいけなくて、行動を起こさなければならないこと。

 

 ここにきてようやく、日本史は私が今生きているまさにこの場所と地続きであることをまざまざと実感させられた。社会科目は遠い世界のお話などでなく、「今」「ここ」を理解するために、そしてこの先へ向かっていくために、大切な知識がぎゅっと凝縮された道標だったのだ。

 「平成◯年だったら、私は◯歳で◯◯に夢中だった頃だな」「私の親は◯歳で◯◯の仕事をしていた時だ」「あのときは◯◯が流行っていたっけ」…

 すでに「日本史」として刻まれはじめている、自分が生きていた時代のこと。個人の生活を振り返りながら過去の社会と照らし合わせたとき、初めて「日本史」を他人事でなく自分事として捉えられるようになった。自分事として捉えてみると、あんなに遠かったはずの政治や社会情勢まで身近に感じられるから不思議だ。自然と「もっと知りたい」気持ちも湧いてくる。

 これを、この感覚を、もしも勉強漬けだった義務教育から大学受験の間に持てていたらどんなに良かっただろう! 「必要だから仕方なく」と嫌々机に向かっていた時間が勿体無い。結局その場しのぎの単語しか頭には入ってこなかったし。あの頃から当事者意識があったら、学校から離れて大いに自分の助けになることを分かっていたら、もっともっとしっかり、ちゃんと、きっと興味を持って、勉強していたに違いない。

 どんなに悔やんでも時間は戻らない。まずはいい年しながら知らなかったことを認めて、できることから探していこう。「無知の知」は、必ずしも悪いことではないはずだ。

 手始めに自分が生まれて育った時代のことから学んでいこう。

 私はまだ、「平成」を知らない。

 

 

 

今週のお題「読書感想文」

 

** 追記 ** 

下書きしたものを書き終えて投稿したら、最新のお題が変わっていました…! 金曜日からが「今週」? お題が違っていても大丈夫かな??