怖そうで怖くない、でもやっぱり怖い『サイコパス』

 他人にいまいち共感できない。頭の芯が冷えきって、自分でも驚くほど冷酷になることがある。

 もしかして自分は『そう』ではないのか?

 

  書店で見かけたときから気になっていた本をようやく読了した。 

 

 

 今では聞けばなんとなくイメージが浮かぶ『サイコパス』。日本における一般的な認知の歴史は案外浅く、この本が2016年に出版されたことからも、注目を集めて広く認識され始めたのはここ数年のことらしい。

 日本の新聞や雑誌のデータベースで検索してみますと、サイコパスという言葉は、90年代まではほとんど出てきません。オウム真理教による地下鉄サリン事件(95年)が起こった頃に一部の精神科医が用いていましたが、あまり広まらなかったようです。

>> 中野信子サイコパス』179頁より引用

 

 私がこの単語に初めて触れたのはいつだろう。気づけばすっかり馴染みのある言葉になっているのだが、おそらく人生で初めて映画『羊たちの沈黙』を鑑賞した20歳前後のことだったと記憶している。

 当時は「有名らしいから見てみよう」なんて軽い気持ちで手に取ったのだけれど、物語が進むにつれてあまりの暴力性に後悔しはじめ、しかし「多くの人が絶賛するからには何か理由があるはず」と毛布に包まって画面を見続けた。怖いし痛いのが分かっているけれど「みんなやっているから」と意を決してインフルエンザの予防接種を受けるような心地。

 身の毛もよだつラストまで見送って分かったのは「"サイコ"ホラー、面白い…!」だった。

 私は元々、ホラー好きの人間ではない。むしろ苦手だ。レンタルショップのホラーの棚には絶対に近づかないし、前を通る必要があれば早足で歩く。どうしてあれほど恐怖を喚起するパッケージなのか…… そのくらい、怪奇現象や血や死が描かれているものは忌避している。

 それなのに、『羊たちの沈黙』には興味を引きつけてやまない何かがあったのだ。その「何か」こそ、「レクター博士」の存在である。

 

 「レクター博士」といえば、連続殺人事件に捜査協力する元精神科医の殺人鬼。サイコパスに分類して差し支えない人物であろう。捜査対象の事件もサイコパスの犯人によるもので、だからこそ類似した思考回路を持つ博士の解説が真相究明への手がかりになる。

 私が惹かれたのはまさにここで、サイコパスの思考回路が論理的に言葉で説明されているところだった。「こんなことを考えて実行する人間が同じ社会にいるんだ、なんて恐ろしいんだろう!」……ではなく。なんと率直な感想として「なるほど分かる」と納得してしまったのだ、自分でも驚くべきことに……

 決して猟奇的な趣味は持ち合わせていないけれど、それでもサイコパスの考えに共感してしまった。おそらくこのときから、自分にとってサイコパスは決して他人事ではない概念となった。

 

 おおよそ100人に1人くらいの割合でサイコパスがいると言えます。日本の人口(約1億2700万人)のうち、約120万人はいる計算になります。

 サイコパスは私たちの周囲に紛れ込んでおり、今日もあなたや、あなたの同僚や友人、家族を巻き込んでいるのです。

 あるいは、この本を呼んでいるあなた自身が、サイコパスかもしれません。

>> 中野信子サイコパス』6−7頁より引用

 

 結論から書こう。この本を読んで大まかな『サイコパス』にまつわるデータを参照した結果…… 私は自分のことを、サイコパスではない、と思う。 

 そう思えるだけの根拠があった。似た気質を持つにしろ、自分の大部分を構成しているものは本書で描かれている人物像や特徴とは正反対にすらあることがわかった。似ているけれど違う何か。その何かが何であるのか、知りたいけれど本書で当てるには限りがある。考えうることは、不全を起こしている脳の部位が近いのかも? その近さゆえに、『羊たちの沈黙』も至極冷静に納得して受け入れることができたのかもしれない。

 

 「これは自分のことではないな」と判断したのは、本書の内容の他にもう一つ理由がある。

 内容が、読んでいてちっとも頭に入ってこなかったのだ。本書と自分自身との化学反応が予想以上に弱かった。

 「あっ、自分のことが書かれている」……そう直感する本に出会うとき、私はページをめくる手が止まらなくなる。心拍数が上昇する(気がする)。目が離せなくなる。それでいて、あまりの衝動に思わず本を閉じることすらある。声を大にして叫びたい、感想を言葉にして外に出したい、誰かと共有したい、衝動。

 かたや本書では、文字を目で追うものの中々頭まで情報が入ってこずに苦労した。脳の部位だとか内分泌物質だとか、専門用語が多用されていたこともある。本文の流れが途切れ途切れで、データの紹介も単なる羅列に過ぎないように見えて脳内補足に疲れたというのもある。だがそれ以上に、書かれている内容がやはりどこか「他人事」だったというのが、大きい。幸いなことに(?)現在自分と利害関係にある人々にも思い当たる相手がほぼなく、強い危機感をもって読むにも至らなかった。

 タイムリーなところでいえばドラマ『MIU404』にて菅田将暉が演じた『久住』に当てはまるのだろうけど、当てはめるにも久住のことを知らなさすぎて、難しい。「俺はお前たちの物語にはならない」。

 

 自分は(おそらく)サイコパスではなかった。そのことに一市民として安堵するし、ではこの心理状態は?とかえってモヤモヤもするし、少しだけがっかりしたりもしている。

 アメリカの産業心理学者ポール・バビアクによれば、サイコパシー尺度のスコアはエグゼクティブ層の方が高く、世間一般の方が低いという結果が出ています。言いかえれば、「出世した人間にはサイコパスが多い」ことがわかっています。

 >> 中野信子サイコパス』182頁より引用

 このように書かれていると、魅力的な特性にも思えてくるから不思議だ。

 だけど「(サイコパスに特有の)良心が分からないこと」に比べたら、社会的地位は高くなくてもいいのかもしれない。そう考えてしまうのは持ち前の良心によってなせる技なのか、それとも。