命綱を握っているつもりで書く

 ブログを始めてみたものの、目に見えて分かりやすい反応である「アクセス数」があまりにも上がらずにやきもきしている。と、いうか、正直なところ寂しい。誰もいない壁に向かって話しかけているようなこの行為に意味があるのだろうかとさえ思う。

 だけど、そもそもブログを開設した目的って「アクセス数」イコール「自分以外の多くの人に読まれること」だっただろうか。

 それもあったが、それだけじゃないはず。元々は自分の中に溢れ出す想いを表に出したくて、ぴったりの言葉に当てはめて形にしたい衝動が始まりだった。いつまでも自分の内に留めてみたところで、ゆっくりと腐敗して毒素になってゆく予感しかなかったこともある。

 それに「アクセス数」なんて結果に過ぎない。「書いて」→「読まれる」ものなのだから、まずは書くことありきだし。書き始めのこの時期に既に沢山アクセスがあったら、それもそれで警戒して率直に書くことができなさそうでもある。

 まずは、「書きたいことを書く」ことに集中する。脳みそから文字への道筋をもっとクリアにしていきたい。

 

 少し前に『読みたいことを、書けばいい。』という本を読んだ。面白かった。近い内に読み返そうと思ってさっと読んだのち、いまだ再び開いてはいないけれど。

 内容は細かいところで充実していた気もするが、とにかくタイトルの通り「読みたいことを、書けばいい。」という本だった。自分もそうしようと強く思った。読みたいことを、書いていく。

 心の中でモヤモヤしている何かがあるとき、私はまっさきにスマホを手にとって検索するという癖がある。悩んでいるキーワードをスペース入力して、或いは脳内にあるフレーズをそのまま一文で書いて、検索ボタンを押すのだ。検索一覧から「これだ」と思うものをタップしてその先にあるリンクの文章を読む。(だいたいYahoo知恵袋に行き着きがち。)自分の心にあるモヤモヤが文章化されているものに目を通して、やっとほっと一息つく。

 だけど、それで毎回すっきり落ち着くかといえば、そうでもない。しっくりくる文章に出会えないことも多いし、いわゆるプロブロガーによるアフィリエイト記事へ言葉巧みに誘導されていると気づいたときにはうんざりする。それ、さも同情や共感しているように見せかけてマルチ商法に引き込むためのセールストークと変わりませんよね、と…… 弱っている心につけ込んで結果的にさらに困窮させるようなこの手のビジネスが、私は好きではない。

 思うように検索結果が出ず、検索ワードを変えてあれやこれやと探しているうちに、はたと気づいたのだ。「読みたいことを、書けばいい。」わざわざ探しに行かずとも、自分が求めている文章を、自分で作ればいいのではないかと。それで、そういうことも、自由なブログの場で書いてみたいなと思っている。悩みになるほど繊細な自分の内面を晒すのは、ときに勇気と気力を要することだけれど。

 

 「溺れる者は藁をも摑む」ということわざがある。今の私はきっと、まとまりのない思考や感情の渦に溺れている。何かに縋りたくて手を伸ばしたブログという手段は、果たして藁なのだろうか。

 全く頼りにならない藁なのか、救いの手立てになりうる命綱なのか。結局それは、溺れている最中には判断しようがないことだ。目の前にあるのなら、手を伸ばして掴んでみるほかない。何もかも諦めて流されていくよりはずっとましだ。(こんなときに「藁」だという社会的認識がありながら藁を差し出す商売だからこそ、前述のようなビジネスブログは好きになれない。)

 文章化という行為を通して自分の内面に向き合う行為は無駄ではない、と信じたい。情報を受けてばかりで鈍っていた脳も活性化するだろう。希望を託して、私は今日も誰にも見られないかもしれないブログを書く。まずは私が読んでいるから、それでいいのだ。

 私はこの場所で、自分の想いや感情に溺れて救いを求めながら、命綱を握っているつもりで書く。